西村清和『視線の物語・写真の哲学』

 写真は新たなる視覚経験をもたらした。
完全であり、記憶性があり、再認識の道具として。
 <いま・ある>ものではなく、
<かつて・あった>ものでしかない。
 バルトのいうように「ちいさな死」を体験し、
終止符を打つことで、固定化し、細部の再読を可能にする。
 ひいては未来・潜在までも語るものとなる。

 この固定が記憶の発見となり、自己像の再編をもたらす。
(ex.カリカルチュア・家族写真・名士の写真)
 そして所有、交換するものとなり、経済流通の中の商品となる。

 一方で再読の力は、低俗なものを除いた人たちの、
理想的「平均」な個人の形を
ファイリングシステムの上に構築していく。

 経済の中で商品として、
「平均」を作り出す機械となった写真は、
「危険に関与せず見るのは楽しい(ルクレティウス)」
という窃視的なを持つようになる。
 しかしそれに対する力は、盗み見だけでなく
暴露的力も持っていた。
(ex.ポルノ、メイプルソープ、植民地の写真、病気の写真)


 構成が難しい。あまりに同時代に写真は起こり過ぎだ。
 全てを話すことは出来ない。