飯沢耕太郎『写真とフェティシズム』リブロポート 1992

 「刺青のミクロコスモス」という一部でいれずみについて言及。
 いれずみは紙やキャンバスに描かれた絵とは異なる。
 それは”死んだ”物質の上に描かれている為であり、
生身の人間に刻みつけられているためとする。
 生身の人間にあるために、人間の伸縮に応じるし、
皮膚の下にあることは奥行きをもたらす。
 それが”生きて”いると感じさせる原因だという。
 更にその画像は、卑俗なものから高尚なものまで全てが選ばれる。
(落書きとの違いを論じるのは楽しそうだ)
 しかもそれらは増殖していくという。
 増殖を止めるのは、語り手か聞き手の死のみである。
 担い手が死んだとき、皮膚は引きはがされ、
保存されたとしても、それは残骸に過ぎず、
ゆらめきの美しさはない。


 飯沢の述べる”生きて”いるいれずみのあり方と、
画像選択には賛同。
 増殖についてはどうなのだろうか?
 確かに体一面ということはおうおうにしてあるのだが、
いれずみ故ではないと思われる。
 空間をどのようにしていくか、は
個人との問題で、すべてがある”生きて”いるいれずみの
本質とはまた別の問題ではないだろうか。

cf:レイ・ブラッドベリ「刺青の男」ハヤカワ
 クリス・ロブレウスキー『刺青ー想像力の顔料』