川村邦光 『オトメの身体』

1<ブルジョワ的身体>への目覚めにて、所謂近代化した身体が理想とされる様を描き出す。
ここで理想とされた身体は、芸妓などの美しさを持つ労働的ではなく、衛生的な存在であった。
美しさという点では、色の世界の人々には敵わなかったのだと言う(p24ー25)。しかし芸妓は文明開化以後、社会的地位が下がる。その過程で色は劣情となり野蛮、愛が開化的とされ対比されていた。そのため、野蛮ではない開化的である事を示すため、きれい・衛生さも求められる。つまり、うつくしく、こぎれい、<ブルジョワ>な身体である。
こぎれいさは、化粧無くとも美しくあることも、もとめるようになる。(今と変わらんな)この衛生・こぎれいさは人工的なものを嫌う。だから中国の纏足を「亡国の一特徴」と呼び、「自然に対する罪人」等とした。しかし何も手入れをしない身体もまた、きれいから遠ざかるために、自然を求めるために手入れをしなければならなかった。
このような身体イメージは雑誌を通じ形成されていった。
 しかし上記の身体イメージは、あくまでイメージ。”想像の身体”である。これは可塑的である。この”想像”が”生身”にゆり戻される体験として、2章ではエロス、「悩める身体」が扱われる。そこでは女であるということでセクシュアリティ的におとしめられる様子が描かれている。セクシュアリティの具体的な話として、3章ではまるまる生理と生理用品の流れを描き出す。2、3章とセクシュアリティは衛生・病気という考えが大きな影響を持っていた事が分かろう。
そして衛生と性の関係から、4章で処女/オトメイメージを描き出す。当時の女性達の用いる「処女」は、経験の無い女という事ではない。性経験はあくまで一つの体験にしかないのだろう。そういったもろもろの経験の無いことが、オトメなのであり、イメージされた身体、「汚れ」ない女性像の事なのだ。
 しかし5章で同時にこの処女を純血と結び付けている。

 しかしおとしめられる女というセクシュアリティに衛生という概念がある事はよく分かるのだが、男性の力をもう少し話しても良かったのではないだろうか。というのは、オトメ像が結婚後の奥様が懐古する過程で現れている事も書かれているのだし。あと、悩む身体と純血のオトメには違いがあるようなのだが…同時代とすれば、これら二つは並ばないように思う。
 しかし男性にとっては生理はミステリーなものなのだろう。なぁ。
 今思うと母が私に小野清美さんのを読ませていたのは、それ用の教育だったのだろうか?お陰でナプキンとかの歴史は一通りさらったのだが…(妹達が読んだ形跡はない)